二月二十九日。カレンダーを見て、深津先輩はぽつりと言った。

 「うるう年なんだね、今年。なんだか卒業が一日延びたみたい」
 わが県では県立高校の卒業式は毎年、三月一日と決まっている。
 「先輩、明日卒業ですね。おめでとうございます」
 私は木炭を握る手を止め、言った。
 「ありがとう。やっと卒業だ」
 先輩は笑って応えた。先輩は手を止めない。木炭紙にはミロのヴィーナスが写しとられている。私のミロのヴィーナスとは比べものにならない程、繊細であった。

 深津先輩は物事の本質を描く。全てを見透かして、木炭紙に写し出す。まだ、美術部に入部したばかりの頃、なんて美しい絵を描く人だろうと思った。
 そして同時に、なんて頼りない人だろうと思ったことも覚えている。先輩はよく転び、嘘が下手で自分に自信がない。普段、いらいらするくらいゆっくり喋る。成績上位者の貼り出しには常に深津慎一の名前があり、勉強はできたが、社会に適応できそうにはなかった。少し抜けているところがあり、後輩である私でさえ心配になった。その心配はつい一ヶ月前、現実のものとなった。
 センター試験の翌日、先輩は私に「試験科目を間違えた」と、半ばノイローゼに陥ったような目をして告げた。どこをどう間違えたのかは、恐ろしくて聞けなかった。失礼だという理由からではなく、ただでさえ情緒不安定な先輩を、更に苦しめてもどうしようもないと思ったからだった。

 先輩は、ほんのちょっとした、おかしなことに不安を感じる。あれは去年の夏だった。先輩は同級生の女子から告白された。告白をしたのは、私も知っている先輩だった。とてもとても美人で、深津先輩には恐ろしい程にもったいなかった。それなのに、深津先輩は断った。その夏、先輩はおかしくなってしまった。デッサンをしている途中、何度も突然息が荒くなり、目を見開いて胸を苦しそうに押さえた。私は怖くなって保健室の先生を呼んできた。先生は様子を見て、カウンセリングを受けることを勧めた。先輩は拒んだが、私も同席することで承諾した。

 カウンセリングで先輩は、振ってしまったという後ろめたさに押しつぶされそうだったのだと言った。私は、なんだそんなことか、とあきれてしまった。だったら付き合えばいいじゃないか。そう思ったが、本当に苦しそうな先輩を見て言葉を飲み込んだ。そんな先輩が、なんとか受験のストレスとプレッシャーに打ち勝っていることが、私には不思議でたまらなかった。
 「卒業したらもう、学校には来ないんですか」
 私は先輩の横顔をちらりと見て訊く。先輩はやはり手を止めない。紙の上のヴィーナスはもう少しで出来上がりそうだ。
 「多分、もう来ないかな。あとは画塾に通うから」
 だったら今日も画塾に通えばいいのに、と思ってしまう。もう先生は帰ってしまったのだから、絵を品評してもらえる訳でもない。国立の美大を受験するのに、こんなところで油を売っていていいのだろうか。

 「よし」

と言って先輩が木炭を置き、イーゼルから離れた。四、五歩後ろに退いて、描かれたミロのヴィーナスを眺める。紙の上のヴィーナスは、華麗に、かつ知的に凛と胸を張っている。
 「どう思う?この絵」
 先輩はじっと絵を見つめて私に訊いた。そんなことを訊かれたのは初めてだったから、私は動揺した。
 「うまいとしか言いようがないです」
 その答えに、先輩は少し悲しそうな顔をした。私は焦った。何かまずいことでもしたか。情緒不安定な先輩の相手は疲れる。
 「あの、大丈夫ですよ。前期、絶対受かってますって。」
 先輩は、ありがとう、と言って微笑んだ。私はひとまず安心した。
 先輩はイーゼルから絵を持ち上げると、私のほうに差し出した。
 「これ、澤田さんにあげるよ」
 突然のことに数秒間止まってしまった。軽く頭をさげ、ありがとうございます、と言って受け取る。
 「それじゃあ、お先に失礼するね」
 先輩はイーゼルをたたんで片付けた。木炭を缶のケースに入れ、ダウンジャケットを羽織る。
 「頑張ってね。俺、結構、澤田さんの絵はいい線行ってると思う。あとは、影をどう捉えるかで随分違ってくるから、頑張って」
 私の絵を先輩が褒めてくれたのは初めてだった。私とは比べられない程、絵の上手い先輩に褒められたのだから、すごく嬉しい。
 「ありがとうございます。先輩も、大学に行っても頑張ってくださいね」
 微笑みながら返事をして、先輩は美術室から去っていった。

 一人美術室に残され、先輩とのたった一年間の思い出を振り返る。デッサン用の鉛筆の削り方も分からない私に、全てを一から教えてくれたのは深津先輩だった。ミロのヴィーナスは静かに、思い出に浸る私を見つめている。卒業式当日、美術室は開かないし、三学年以外は先に下校しなくてはならないから、先輩と言葉を交わすのもあれで最後だったのだ。先輩がくれたミロのヴィーナスの木炭デッサンを見つめる。最後にいいものをもらった。もし先輩の顔を忘れたとしても、きっと先輩が物事の本質を写し取っていた姿は絶対に忘れない。

 正直、深津先輩に「大学に行っても」とは言ったものの、先輩が美大に合格するのか、はっきりいって不安だった。センター試験で受験科目を間違えたのだから、実技ではほんのわずかな失敗も許されない。もしかして、もう完璧にデッサンをこなしても、無理かもしれない。せめて、何の心配もなく先輩がベストを尽くせるよう、情緒不安定に陥る危険性があることは避けなくてはならなかった。

 だから絶対に、言ってはいけなかったのだ。私は先輩が好きです、と。よく頑張った、私。 さようなら、先輩。この気持ちは胸にしまって、綺麗な想い出にしよう。




 先輩がくれたミロのヴィーナスに、私と同じ泣き黒子が描かれていたことに気づいたのは、私があの頃の先輩と同じ、高校三年生になってからだった。

 あれから先輩がどうなったのか、私は知らない。




【終】





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ミロのヴィーナス
          (内市 ヨタロウ)

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