小さな喫茶店 加藤 未来 小さな喫茶店で ぼくら二人はお菓子とお茶をまえにして座っていた ぼくらはひとことも喋らなかったけど よく分かっていたよ、理解しあってるってこと そばでは電気ピアノが 『二人は幸せ』って曲をかすかに奏でている 小さな喫茶店で ぼくらはずっと、お菓子とお茶をまえにして座っている フレッド・レイモンド作曲『小さな喫茶店』より うちの主人は、普段ならば「ここは喫茶店だ、日本酒なんぞ置いてないぞ!」と曲がっている腰をぐっと伸ばして怒鳴りますが、今夜は特別です。大晦日、紅白歌合戦を見ようという時間になってストーブがおかしな音を立て始めまして、仕方なく、夫婦でやっております喫茶店にお酒と年越し蕎麦の残りを持ち込みました。 「最近の音楽はよう分からん」 主人はカウンターに座って、端にある小さなテレビにぶつくさ申しております。私は電子レンジで蕎麦を温めなおしてカウンターに持って行きました。 「でも若い人は元気がありますよ、踊りながら歌っていらっしゃるから」 蕎麦を主人の前に置き、私は主人の隣に座ろうとしました。ですが、狭い店内に並べたカウンター席の間隔は狭く、隣の席に座ると本当に肩身を寄せ合うようになってしまうので、なんだか気恥ずかしい感じがして、私は一つ席を空けて座りました。テレビの中では若い男の子が床に頭をつけたままグルグル回り出して、主人はオオオオ、と声を上げていました。 「こいつは踊るばかりで、歌わんな」 そう言う主人の背中を見ていると、この人は本当に歳をとってしまったなと思います。カウンターに立ってコーヒー豆を挽いている手付きを見るとそうでもありませんが、お酒を口に運ぶ手や、頭の周りをわずかに覆う白髪を見ておりますと、ひどく年寄りらしく思えました。 「見えるか?」 そんなことを考えておりますと、主人が振り返って私に聞きました。 「はい?」 「テレビ、見えとるか」 「見えますよ」 「そうか。もう一つこっち来い、見にくいだろう」 さっと言って主人はまたテレビに目を戻しました。私は少し考えましたが、主人のすぐ隣の席に移ると、蕎麦のどんぶりを引き寄せました。主人と肩がぶつかって、腕もくっつきます。私の腕は最近さらに脂肪がたまっておりますが、逆に主人は筋肉が落ちて寒々しい、頼りない腕です。店の暖房は少し効きが悪いようですが、二人身を寄せ合っていると、くっ付いた部分からじわじわ温まっていくようでした。 テレビでは昭和の名曲というのが始まっています。 「なつかしいな」 よく知っているメロディーが続いて、自然と私もテレビに夢中になりました。 「おい、このレコード店になかったか」 「ええ、ありますよ」 テレビでは『小さな喫茶店』という有名な曲を、大勢の方で合唱していました。前のマスターからこの店を買い取った当初、いまはそんなもの流行りませんよという私の意見を押し切って、主人がよくかけていたものです。幸い私の心配をよそに、常連の方はいらっしゃるたびに懐かしい懐かしいと仰ってくださいました。 「懐かしいな、オオ」 主人はその後も懐かしいと言い続けていました。私も『小さな喫茶店』は懐かしい曲ではありますが、その感じ方は主人と少し違ったものです。 私たちが結婚する前、実はこの喫茶店の前でよく待ち合わせをしたものです。当時の主人はまだ学生でお金があまりありませんでした。ですから私たちは喫茶店には入らず、町の中をただ話しながら歩いて何周もしたものです。私は比較的裕福な家庭に育ちましたから、喫茶店の代金を出してあげることも出来たのですが、男である主人の自尊心を思うと決して言い出すことが出来ませんでした。 ところが、一度だけその喫茶店に入ったことがありました。今日は寒いからと若い主人は戸惑う私の手を引いて喫茶店の中に入りました。主人は緊張した面持ちで、まるで高級なレストランにでも行ったように律儀なふうにコーヒーを注文しました。私が紅茶を頼むと、ぜひケーキもたのみなさいと言ってくれました。もしお金が足りなかったらとハラハラしていましたが、主人はポケットから茶封筒を出してその中に入っていたお金で精算を済ませました。主人が勉強の合間を縫ってアルバイトをしたお金でした。 「ちょうどあの窓の席だったな」 思い出に浸っている私の耳に、主人の声が届きました。ハッとすると、紅白歌合戦は終盤に差し掛かっています。主人はテレビに背を向けて、窓庭の席を眺めていました。窓の向こうでは雪が降り始めています。 「覚えてますか」 「今思えば、あの給料でなにか洒落たものでも買ってやればよかったな」 主人がふと言いました。 「何をいまさら」 「そうか」 主人はそう言うとまたテレビの方に体を向けました。私も採点の始まっている紅白に眼を移しました。と、主人は最後の一口になったお酒を飲み干したかと思うと、突然こっちをじっと見て体を伸ばしました。テレビを見ている私の頬に、横から口付けてきたのです。私は驚いたような呆れたような恥ずかしいような、おかしな気持ちでテレビから眼がはなせなくなりました。体が中心からぽっぽと温かくなってくるようです。 「ハハハ」 少しお酒に酔った眼で主人が笑います。その顔は恥ずかしそうでもあり、ただ酔って浮かれているようでもありました。 「すみませーん」 そんなとき、店の扉が開きました。私はうっかりと閉店の札をかけ忘れていたことに気付きました。 「すみません、お店やってますか」 入ってきたのは若い男女でした。男の人は背の高い眼鏡の、気のよさそうな青年で、女の人は帽子を深々と被り顔は見えませんでしたが、私たちが立ち上がると小さく礼をしました。帽子に積もっていた雪がマットの上に落ちました。私はこんな寒い中で二人を追い返すような真似はしたくなかったのですが、 「ごめんなさいね、今日は」 と言いかけると、主人が前に出て言いました。 「いいじゃないか。どうぞ、座ってください」 主人はお酒が入っていくらか機嫌がいいようで、二人を窓際の席に案内する姿は上司を接待するかのようです。私が蕎麦の入っていたどんぶりを下げている間に主人はコーヒーとココアの注文をとって、カウンターに立ちました。私は主人が「こんな夜中にどうしたんだ」とか、「そのお嬢さんはちゃんと家に送り届けるんだぞ」といった無粋なお節介を始めないことにただただ、驚くばかりです。 そして主人は、騒がしい音を立てているテレビを見ると、 「なんだか野暮だね。テレビ、消しなさい」 「はいはい」 さっきまで背中を丸めて喰らいついていたというのに、本当に子供のような人です。私はテレビのスイッチを捻りに走りました。そうして動いていると、さっきのことで少しほてっていた体が冷めてきます。なんだか寂しいような気がして、私は窓際の二人を観察しました。座る二人の体は、服についていた雪が溶けてキラキラ光っていました。それが若さの輝きであるような気がしてきて、私は少し羨ましく思いました。あんな二人がさっきの私たちのように肩身を寄せ合って口づけを交わしたらどんなに美しいだろうかと、ついつい娘のようなことを考えてしまうのです。 見つめる私に、窓際の男性は遠慮がちに声をかけてきました。 「あの、彼女お腹がすいているみたいなんです。なにか作っていただけますか」 じゃあ年越し蕎麦を食べていったらと私が言いかけますと、主人はそれも野暮なことだと言いたげに私を睨みました。すっかり私は古女房の気持ちに戻ってしまって、主人の周りをあくせく動き回りました。 「おい、サンドウィッチでも作ってやりなさい」 「はいはい」 「そうだ、レコードをかけてやろう」 「はいはい」 「おい、こいつの針はどこだ」 「はいはい」 END |
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